大学は社畜に慣れるための場?
大学に通うようになって一年と七ヶ月が経とうとしている。
最近になって、自分は大学とはどういう場所なのかを改めて考えるようになった。
自分が思うに、大学(専門学校や大学院もそうかもしれない)とは、社会に出るための専門科目を学び研究をするための機関である一方、本記事のタイトルにもなっている「社畜に慣れるための場」という認識を持っている。
というのは、大学はそれまでの高校と大きく異なり、何もかもが自己管理・自己責任だ。
つまり、何をするかは自分の意思によって決められるし、被害や責任を被るないし追うのもまた自分である。
授業なども自己管理・自己責任の下自由な選択肢がある。
しかしながら、大学の場合は単位といって一定数の学問を修めねばならない。
加えて、大学の講師・教授はいわゆる「我が道を行く」。
他授業や遅延・サークルなどに関する配慮はない。
授業自体も難しいものが多く、少しでも気が緩むと一気に離されてしまう。
そういった環境のなかサークルやら部活・友人関係を保てる人々は、自分から見れば天才か異常としか思えずにいる。
いや、それとも自分が間違っているのだろうか。
大学という場所をなめきっているのか?
大学に通う裏、ニコ動上で作品を作り続けていることが間違いなのか。
だが、Twitterやニコ動を見る限り、同世代もとい年下で、学問を修めつつ作品を作っている人がいる事は事実だ。
彼らと自分の違いは何なのか?
自分にたりないものは何なのか、忍耐?努力?
...と簡単には言えても、結局のところ本核は分からない。
いつ見えてくるかも分からない。
今の時点で多方面でつまづいている自分は、社会適正が未だに身に付いていないのだと思う。
社会で生きるための術を身に付けるには、社畜に慣れないといけないのかもしれない。
社会に出れば、大学よりずっと自己管理・自己責任の場や機会は増えるはずだ。
そして何よりも、社会では失敗が許されないなかで、雇用人の資本増大の為に身を粉にして働かないといけない。
もっと簡単に言えば、セーブもリセットもできないゲームそのものなのだ...と自分は考えている。
そういった過酷ななかで働く人々の一部を社畜といったりしている。
最近のニュースや記事を見ていると、そう呼ばれる人は増えてきているように感じる。
今の大学生には、社畜に慣れる事が求められているような気がしてならない。
もしそうならば、今からでも自分の甘えを全て捨てないといけない。いや、捨てる。
作品作りもやめるべきなのかもしれない、社会で生き延びる術を身に付けるために。
最近になって、自分は大学とはどういう場所なのかを改めて考えるようになった。
自分が思うに、大学(専門学校や大学院もそうかもしれない)とは、社会に出るための専門科目を学び研究をするための機関である一方、本記事のタイトルにもなっている「社畜に慣れるための場」という認識を持っている。
というのは、大学はそれまでの高校と大きく異なり、何もかもが自己管理・自己責任だ。
つまり、何をするかは自分の意思によって決められるし、被害や責任を被るないし追うのもまた自分である。
授業なども自己管理・自己責任の下自由な選択肢がある。
しかしながら、大学の場合は単位といって一定数の学問を修めねばならない。
加えて、大学の講師・教授はいわゆる「我が道を行く」。
他授業や遅延・サークルなどに関する配慮はない。
授業自体も難しいものが多く、少しでも気が緩むと一気に離されてしまう。
そういった環境のなかサークルやら部活・友人関係を保てる人々は、自分から見れば天才か異常としか思えずにいる。
いや、それとも自分が間違っているのだろうか。
大学という場所をなめきっているのか?
大学に通う裏、ニコ動上で作品を作り続けていることが間違いなのか。
だが、Twitterやニコ動を見る限り、同世代もとい年下で、学問を修めつつ作品を作っている人がいる事は事実だ。
彼らと自分の違いは何なのか?
自分にたりないものは何なのか、忍耐?努力?
...と簡単には言えても、結局のところ本核は分からない。
いつ見えてくるかも分からない。
今の時点で多方面でつまづいている自分は、社会適正が未だに身に付いていないのだと思う。
社会で生きるための術を身に付けるには、社畜に慣れないといけないのかもしれない。
社会に出れば、大学よりずっと自己管理・自己責任の場や機会は増えるはずだ。
そして何よりも、社会では失敗が許されないなかで、雇用人の資本増大の為に身を粉にして働かないといけない。
もっと簡単に言えば、セーブもリセットもできないゲームそのものなのだ...と自分は考えている。
そういった過酷ななかで働く人々の一部を社畜といったりしている。
最近のニュースや記事を見ていると、そう呼ばれる人は増えてきているように感じる。
今の大学生には、社畜に慣れる事が求められているような気がしてならない。
もしそうならば、今からでも自分の甘えを全て捨てないといけない。いや、捨てる。
作品作りもやめるべきなのかもしれない、社会で生き延びる術を身に付けるために。
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